
今回は高2アカデミックコース、「文学国語」の授業紹介。「リーダーズシアター」として「音読劇」に挑戦しました。
手順は以下のとおり。
①グループごとに作品を選択する→1.夏目漱石「夢十夜」(第一夜)、2.森鷗外「高瀬舟」、3.芥川龍之介「魔術」、4.宮沢賢治「注文の多い料理店」、5.サン=テグジュペリ「星の王子さま」
②脚本を作り、配役(ナレーター含め)を決定する。
③演出(ポスター、BGM)を作成する。
④グループごとに発表する
では、ここから何が学べるのか、教室で何が起こっていたかを要約すると次のようになります。
「脚本を作る」ためには作品を「理解」する必要がある。その各自の「理解」は、一つの劇を創りあげるためにメンバーで「共有」される必要がある。「共有」されるためには「なぜそう読めるか?」の部分が言語化される必要がある。その過程で自身の「読み」が揺さぶられ、「変化」する。その「変化」が共有されることで作品は「自分たちのもの」に形を変えていく。また、音声で伝える表現を追究することで、「文字による表現」で何が実現されたかを再認識する。
きわめて「文学的」なキーワードが並ぶことに気づきます。
「国語」の授業は≪作者→(学者・教師)→読者≫の構図のなかで「こうあるべき・こう読まれるべき」という「文学の正解」が前提とされすぎていたように思います。そこに「ほかならない私」が入る隙間はほとんどありません。でも、このワークは≪作品―読者≫が前景にきて、それを「他者(自分以外の人)」と共有するという複線的な「拡がり」が期待されるもので、実際に生徒たちは教室でそれを体験しました。
生徒のふり返りは、そのことをはっきり語っていました。
◆脚本を作り読み進めていくときに、それぞれの受け取り方の違いや小さなズレについて話し合い様々な角度の視点から、解釈が深まったり変わったりした。
◆多様な表現に変換し共有するというプロセスを経る前は、よくある物語だ な、という見方をしていた。しかし、このプロセスを経たことで音や視覚、声を用いても情景を伝えることはとても難しいことだと理解をし、文字だけで容易に情景が伝わってくる宮沢賢治の偉大さに気がついた。
◆私の中で「高瀬舟」は、ただの「兄弟愛」だけを描いた作品であると思っていた。しかし、リーダーズシアターを通して、読み手に対して「何を罪にするのか」と聞いているようにも感じられた。このように「罪」の基準というものを読み手に考えさせることで「本当の正しさ」というものが作られていくのだと思った。
たとえば、『星の王子さま』の本文は「『かんじんなことは、目には見えない。』と、王子さまは、忘れないように繰り返しました。」ですが、脚本は「『かんじんなことは、目には見えない……。かんじんなことは……、目には見えない』と抑揚と間を効果的に使って実際に「繰り返し」て読み、本文では「行間」であったニュアンスが臨場感をもって再構築されました。
また、『注文の多い料理店』では、いわゆる「現実」に戻った紳士二人のその後が描かれるのですが、山猫の親分が覗く場面の直後に「……果たして、この二人の紳士がどうなったのか、それを知る者は、もう、誰もいません。」と、あえて「現実」に戻さずに物語の「ホラー性」を前景に解釈できる可能性を示しました。
「文学」をどのように受け取って、自分のものにしていくか。その意味で意義の深いチャレンジだったと思います。






